日光東照宮の価値・魅力・歴史をざっくり解説【紅葉の世界遺産をのんびり散歩】

「日光東照宮ってなんで有名なの?」とか「何がすごいの?」について、私なりにまとめてみます。栃木県が誇る観光名所、そして世界遺産なわけですが、あなたが「よくわからないけど、歴史的価値がある大きな神社なんでしょ…」くらいでフワフワしたイメージであれば、参考にしてもらえると幸いです。

今回の記事では、写真をたくさん掲載していますが、写真の範囲については、ほとんどのエリアで愛犬と散歩することもできます。原則的に建物内はNGですが、ワンちゃんと一緒に世界遺産を巡るもの素敵な時間の過ごし方だと思いますよ。

日光東照宮の手前で駐車したり、電車(JR・東武日光線)を利用すると、上写真のような参道を歩いて向かうことになります。お土産の目星をつけておいたり、食べ歩きなんかもいいですね。しっかり歩道が確保されているので歩きやすいです。

たまたま立ち寄った「日光ぷりん亭」を紹介します。レトロな雰囲気たっぷりで、牛乳や卵なんかは地元の素材を使って提供しています。今回はその「日光ぷりん亭」の系列で、2022年9月にオープンしたばかりの「ぱんけーき倶楽部」にお邪魔しました。その名の通り、パンケーキサンドの専門店です。

ソースが選べて、食べ歩きができる「ぱんふるぼー(上写真)」を楽しみながら、どんどん進みます。東武日光駅から歩いて20分あれば、日光東照宮エリアの入口にあたる神橋まで到着しますが、食べたり休憩すると60分ってところでしょう。

上写真が神橋(しんきょう)です。昭和中期まではこの先までも電車が走っていたようなので、かなり違う景色だったのではないでしょうか。この神橋、長さも中途半端、渡った先は行き止まり、という変わった橋ですが、しっかり入場料(維持管理費としましょう)はかかります。

何がそれほどすごいのでしょうか?

◆神橋とは?

神橋は霊域の入口であることを示しています。ここから先は伝説ですが、勝道上人(僧侶ですね)が大谷川の激流を前にして、その先に進めなくなった時に祈ったら、深沙大王(守護神)が投げた2匹の大ヘビが橋になって、向こう岸まで渡れたそうです。現在の橋は明治37年に再建されています。

その勝道上人が下写真です。およそ奈良~平安初期に活躍して、日光山の登頂に3度挑戦の末に、開山したことで知られています。

◆勝道上人の生涯

・735年 下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡市)に生まれる

・762年 如意僧都(下野薬師寺)に師事、その後北方に見える男体山を目指して精進岳にたどり着く

・下山して、大谷川を渡って二荒山麓に向かおうとして神橋がかかる

・大谷川を渡った先に四本龍寺(これが輪王寺になったと言われている)を建立

・767年 男体山登頂に挑戦するも失敗

・781年 再度、男体山登頂に挑戦するも失敗

・782年 3回目の挑戦にして登頂成功、37日間にわたり男体山の神霊を礼拝

・784年 再度男体山に登り、中禅寺湖のほとりに神宮寺、中禅寺を開く

・817年 82才で死去

◆なぜ日光(にっこう)?

ざっくりですが(しかも正確な歴史資料が少ない…)このように、日光開山の祖として、人々に尊ばれています。782年の男体山(2486m)登頂により、観音菩薩の住処、補陀落山(ふだらくさん)にちなんで、この山を二荒山(ふたらさん)と名付けました。この二荒の音読み「にこう」から「にっこう」という地名になったようです。

この歴史を知ってから、神橋から景色を眺めてみると(上写真)ちょっと違う味わいではないでしょうか。

◆平安時代

空海(真言宗)や円仁(天台宗)の来山があり、特に円仁は三仏堂、常行堂、法華堂を建てたと言われており、ここから輪王寺は天台宗大本山として存在することになります。

上写真、下写真が輪王寺です。現存するこれらの堂は再建されたものですが、輪王寺はもっと知られてもいいですね。撮影NGですが、三仏堂は迫力ありますよ。

◆鎌倉時代

源実朝により、現在の日光東照宮がある位置に本堂が移されます。この頃より、男体山、女峰山、太郎山の三山を神とする「日光三所権現(ごんげん)」として修行が盛んになってきました。

◆室町時代~戦国時代

500の僧坊(僧侶や尼僧のみ利用できる宿泊施設のようなもの)が並び、隆盛を極めますが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に北条側に加担したため、寺領を没収されてしまいます。一時衰退期です。

ちょっとブレイクタイム、上写真は砂利道が露店が並び、その先に東照宮が待っています。ちょっとした座れるスペースも用意してくれているので、助かります。外国人観光客やリゾートの一環で立ち寄っている方のために、街道にあるようなレストラン施設があっても良いとは思いますね。

◆江戸時代

日光山(日光寺社の総称)は、徳川初代将軍「徳川家康」、二代「徳川秀忠」、三代「徳川家光」から大きな支持を受け、天海(天台宗)が貫主(住職)となり復興を遂げます。

1616年、徳川家康は人生の師でもあった天海を駿府城(静岡県)に招き「自分の死後、遺体は久能山(静岡県)に納め、葬儀は増上寺(東京都)で行い、位牌を大樹寺(愛知県)に立て、一周忌を過ぎたら日光山に小さき堂を建てて勧請(分身、分霊を他の地に移して祭ること)せよ。我、関八州の鎮守とならん」と遺言を託します。

一言で表すと「自分が死んでも、日光山から関東を見守るよ」って感じでしょうか。天海は遺言を受け、徳川家康の御霊を「東照大権現(現在の東照宮)」として祀りました。

この流れを知ると「東照宮」つまり「東を照らす宮」の捉え方が全然変わるのでは。三代将軍の徳川家光は、特に家康に対する尊敬の気持ちが強く、東照宮を現在の姿のような豪華絢爛な大きな社殿に建て替えました。

上写真のように、陽明門や本殿があるエリアから進み、徳川家康が眠る奥社宝塔を目指します。意外と坂を登りながら歩くのですが、タイムスリップのような不思議な感覚に襲われます。個人的にかなり印象的でした。

武士が主役の武家政権(平安末期~鎌倉時代~室町時代~戦国時代~江戸時代)において江戸時代(徳川幕府)は、その集大成として約260年も続きました。

江戸時代の前は700年近く政局不安定だったことを考えると、徳川幕府の誕生は日本史におけるひとつのクライマックスであったし、明治維新によって天皇制に戻ったことも大きなターニングポイントでした。その徳川幕府を作り上げた征夷大将軍「徳川家康」の存在は唯一無二のものがあります。

上写真が徳川家康の墓所、奥社宝塔(御墓所)です。当初は木造、その後石造になり、1683年の地震を機に銅製になったようです。徳川家康の遺骸が久能山、日光山のどちらにあるのか定かではないようです。そんなロマンのある謎を残しているところも、魅力ですね。

 

日光東照宮の価値・魅力・歴史を私なりに紹介してみました。

ふらっと散歩のように楽しむこともできますし、日光開山からの歴史に想いを馳せる味わい方もできると思います。ペット(愛犬)と一緒に訪れることができる世界遺産、という意味でも貴重な旅行先候補になるのではないでしょうか。世界遺産で学んだ後は、リフレッシュしたいですね。

思いっきり走って遊びたい!

ワンちゃんとゆっくりカフェで休憩したい!

という方は、こちらの記事を参考にしてください。日光から首都圏方面に向かう途中のドッグランやドッグカフェを紹介しています。